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日唱による芥川也寸志合唱個展

日本の巨匠シリーズ「芥川也寸志の合唱曲」

2017年6月9日(金)19時開演、18時30分開場

渋谷区文化総合センター大和田伝承ホール

  

室内合唱団「日唱」

 

室内合唱団 日唱 第16回定期

 

 

2016年からスタートした「日本の巨匠シリーズ」の第2回として「芥川也寸志」個展が行われます。

企画と司会は日本の作曲家コンサートやCDをプロデュースする西耕一(音楽評論)です。

芥川也寸志の幅広い活動から、「合唱」音楽を中心に構成。

これまでまとめて演奏されることのなかった芥川也寸志の合唱曲を一挙に鑑賞できる貴重な機会となります。

作曲家 芥川也寸志(1925-1989)は、文豪・芥川龍之介の息子として、文学に対しては一方ならぬ思いがあったと推察されますが、様々な詩につけられた音楽は、どれも芥川サウンドが溢れています。

オーケストラ、映画音楽だけでなくテレビ、ラジオ、CMなどで沢山の美しい「メロディー」を作った芥川也寸志。

そのような「メロディー」には、多くの「うた」「合唱曲」があります。

今回は「放送音楽」「映画音楽」「うたごえ運動」「NHK音楽の広場」「沖縄民謡による合唱曲」「学校の校歌や会社の社歌、自治体の歌(団体歌)」など、これらはアマチュアに書かれたものもありますが、敢えてすべてをプロフェッショナルな合唱団による演奏で体系的にまとめて演奏することで再検証をいたします。

豊かな音楽性と高い芸術性を持つ芥川也寸志の世界に親しんで頂ければと考えています。

―芥川也寸志の合唱曲―

 

(1)マイナス空間音楽論による合唱曲

 お天道さま・ねこ・プラタナス・ぼく(1964)無伴奏六部合唱

(2)戦火のなかで育まれた友情の歌

 シ・ラ・ミの歌(1945・團伊玖磨共作、徳永洋明 復元)

(3)課題曲

 心の種子(1951)混声三部(女声1,2、男声1)、pf NHK全国学校音楽コンクール昭和26年中学校課題曲

(4)男声合唱グループの台頭(ダーク・ダックス委嘱作より)

 新聞(1956)無伴奏男声4部合唱

(5)声の始原へ

 パプワ島土蛮の歌(1950)男声合唱とピアノ

(6)日本への思い

 沖縄民謡集より 1.谷茶前(1965)

(7)うたの力

 オケラの歌

 21世紀讃歌

(8)テレビと音楽

 ここは瀬戸内ほか

(9)晩年の合唱曲より

 不動明王(1982)混声四部、ピアノ

(10)こどものための歌

 ことりのうた(こどもの童謡)ほか

(11)団体歌

 東京ガス讃歌

 日産「世界の恋人」(青島佳祐 復元)

 JALマーチ

 鹿児島ナポリターナ(青島佳祐 復元)

 早稲田の栄光

 群馬県立高崎高等学校校歌

 慶應義塾大学中等部の歌

 稲毛小学校校歌ほか。

 

 

指揮:徳永洋明 ピアノ:松元博志

編曲・復元:徳永洋明、青島佳祐

料金/一般 ¥3500

ペア¥6000

65歳以上 ¥3000

学割有 ¥1000

 

問・事務局チケット販売/日本合唱協会070-5584-5476

Website http://www.nissho-chorus.com/

チケット:イープラス http://eplus.jp/

合唱団直販 http://www.nissho-chorus.com/archives/16th%5Eticket.html

 

室内合唱団 日唱

【指揮】徳永洋明

【ピアノ】松元 博志

【ソプラノ】大橋 響子 片山 沙緒里 上出 朝子 高麗 文江 品川 更紗 森川 郁子

【アルト】久保田 遥子 宍倉 淑子 菅沼 安佐代 関 さゆき 柳田 文子 湯田 佳寿美

【テノール】荻島 寛樹 坂口 義行 根岸 一郎 堀越 尊雅

【バス】石井 義典 井東 譲 白井 智朗 植田 真史

 

一般社団法人 日本合唱協会

2014年 一般社団法人日本合唱協会(通称 室内合唱団日唱)を設立。室内合唱団日唱は、1963年に設立され1966年から25年間山田一雄のもとで音楽的基盤を作り上げ

た日本合唱協会の意思を継承し、その演奏は透明なハーモニー、緻密なアンサンブル、美しい音色、豊かな音楽性を有し、他の追随を許さない評価を得ている。

年間5回の定期演奏会、日唱コーラスサロン、特別演奏会、地方公演の他TVラジオ出演、CM、CD録音、また全国の小中高校および施設での音楽鑑賞教室への出演等、音楽普及に努めている。

 

徳永洋明(とくなが ひろあき) 指揮

京都に生まれ藤沢に育つ。湘南学園中・高等学校を経て東京藝術大学音楽学部作曲科を卒業。中学三年生で母校湘南学園創立55周年「祝典序曲」を作曲(広上淳一指揮、読売日本交響楽団により初演)。1997年より五年間、「横濱ジャズプロムナード・シンフォニックインジャズ」で、神奈川フィルハーモニー管弦楽団とオーケストレイションコラボレイターならびに指揮者を務め(小松一彦氏等と)、日本を代表するジャズミュージシャン(山下洋輔、坂田明、斉藤徹、板橋文夫、林栄一各氏等)と共演した。作曲作品は管弦楽曲から室内楽、独奏曲、歌曲、合唱曲、ミュージカルから放送音楽まで多岐に渡っており、コンクールの課題曲として採用されるほか再演も数多い。一方アレンジャー、指揮者、ピアニストとしても数多くの録音、放送、舞台に参加しており、その卓越した技巧とジャンルを超えた音楽性は、多くの音楽家より篤い信頼を得ている。第七回奏楽堂日本歌曲コンクール作曲部門第二位。「2agosto」国際作曲コンクール第三位(クラリネット協奏曲)。文化庁芸術祭大賞(ラジオドラマ「2233歳」の音楽)等受賞多数。日本作編曲家協会会員。

 

松元 博志(まつもと・ひろし)ピアノ

国立音楽大学音楽学部器楽学科ピアノ専攻卒業。同大学院音楽研究科修士課程器楽専攻修了。これまでにピアノを大内裕子、大黒康子、山内直美、安井耕一の各氏に、室内楽を徳永二男、長尾洋史の各氏に、伴奏法を浅井道子氏に師事。大学在学中、『聴き伝わるもの、聴き伝えるもの』シリーズに出演。「20世紀後半から21世紀の音楽」(2006年)、「アメリカ実験音楽の風景」(2007年)にて現代器楽作品の初演等に参加。2010年・2014年、ジョイント・リサイタルを開催。ソロ演奏の他、連弾・2台ピアノのアンサンブルにも取り組む。

現在、プロ合唱団・日本合唱協会をはじめ多くの合唱団にてピアニストを務め、声楽・器楽・合唱の共演者として多くの演奏会に出演している。

 

青島佳祐(あおしま けいすけ)

静岡県出身、東京藝術大学作曲科卒業。これまでに渡会美帆、有馬禮子、野平一郎に師事。大学在学時、木曜コンサートに弦楽四重奏が推薦、演奏された。第20回東京国際室内楽作曲コンクールで入選。第12、14回弘前桜の園作曲コンクール一般の部で共に2位。第85回日本音楽コンクール作曲部門(管弦楽)にて入選。軽井沢国際音楽祭ライブラリアン。スリーシェルズ所属。

 

西耕一(にし・こういち)司会・企画構成

日本の現代音楽評論と企画を専門とする。2004年より、日本作曲家専門レーベル・スリーシェルズにて、伊福部昭や3人の会(黛敏郎、團伊玖磨、芥川也寸志)を中心に演奏・CD化を行う。 これまでにNHK 、東京藝術大学、日本作曲家協議会、日本現代音楽協会等、放送局や研究機関の依頼による企画協力や、NHK交響楽団、読売日本交響楽団、東京フィルハーモニー交響楽団、東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団、東京バレエ団、新国立劇場等のプログラム冊子執筆で評価される。 執筆雑誌は『音楽現代』、『音楽の友』、『邦楽ジャーナル』、『バンドジャーナル』、『New Composer』等。 近年の主な仕事として、セントラル愛知交響楽団による日本の管弦楽曲100周年企画選曲や東京フィルハーモニー交響楽団黛敏郎個展における論文のほか、『松村禎三 作曲家の言葉』(春秋社)や『黛敏郎の世界』(ヤマト文庫)の企画・編集、CD『松村禎三作品集』(Naxos Japan)解説などがある。 2014年伊福部昭の生誕100年を祝う「伊福部昭百年紀」シリーズをプロデュース、第3回、第4回「伊福部昭音楽祭」に関わる。2015年、「芥川也寸志生誕90年」「渡辺宙明卒寿記念」コンサートを行う。2016年には、「伊福部昭百年紀4」「黛敏郎個展」や日本合唱協会による「伊福部昭個展」(和田薫指揮)をプロデュース。オーケストラ・トリプティークと展開する「日本の作曲家シリーズ」では、日本の前衛音楽、近現代音楽、映像音楽をテーマにコンサートを行っている。

 

芥川也寸志(あくたがわ・やすし)

芥川也寸志は、芥川龍之介の三男として東京市滝野川区(現・北区)田端に生まれ、5歳上の長兄比呂志は、俳優で演出家、3歳上の次兄多加志は、フランス語を学んだが、南方戦線で24歳の若さで戦死した。多加志は、非常に文才のあった人で、龍之介も驚嘆するような感覚の持ち主だったという。多加志との思い出は、いくつかの著作の中で述べられている。  

自身が語っているように音楽の勉強を始めた時期がかなり遅く、体を壊すまでの猛勉強をし、1943年東京音楽学校予科作曲部に最下位で合格、在学中は、ウイーンで最新の音楽を学んだモダニスト橋本國彦に近代和声学と管弦楽法を、やはりウイーンに留学しF・シュミットが「日本のストラヴィスキー」と激賞したとされる早逝の作曲家細川碧と、ベルリンでヒンデミットに師事した下総皖一に対位法を学んでいる。

1944年、学徒動員で陸軍戸山学校軍楽隊に入隊、テナーサックスを担当するとともに、1級上だった團伊玖磨と軍楽隊用の音楽の編曲などを担当した。この経験が、芥川のオーケストレーションの技術、特に管楽器の使用法に十分に生かされているといえる。1945年4月、軍楽隊を首席で卒業、團は、成績は良かったが虱を沸かせて首席になれなかったと述懐している。

1945年8月、終戦により東京音楽学校に戻り、作曲科講師として招聘された伊福部昭と出会い、決定的な影響を受ける。伊福部とのエピソードは多々あり、有名なものも多いので省略するが、昭和24、5年当時の音楽専門誌を読むと、芥川を「伊福部の後継者」と評しているものもあり、これは卒業作品である『交響管弦楽のための前奏曲』(1947)等の作品の作風についてと、卓越した管弦楽法の技術についての双方からの評価であると推察される。 

ただし、伊福部音楽の直接的影響は、2つ目の管弦楽作品である『交響三章』(1948)で、すでに影をひそめ、進駐軍のラジオ放送で聴いたとされ、のちにより明確となる旧ソ連の作曲家-あるいはチャイコフスキーあたりまでを含んで広くロシア音楽かもしれないが-の影響がみられる。また、当時のラジオ放送で印象に残ったものとしてフランクマルタンの「小協奏交響曲」(1945)をあげている点も興味深い。事実上の出世作はNHK放送25周年記念懸賞募集管弦楽曲に團伊玖磨『交響曲イ調』とともに特賞入賞した『交響管絃楽のための音楽』(1950)である。

芥川の音楽を味わう場合、大きくおよそ10年ずつ4つに分けるのが妥当かもしれない。

第1期にあたる『交響三章』(1948)から『子供のための交響曲「双子の星」』(1957)あたりまでは、多少の違いはあるものの『弦楽のための三楽章』(1953)にみられるような、明確なリズムと和声、のびやかで美しい旋律を特徴としたものが多く、この初期の作品の魅力に惹きこまれて芥川音楽のファンとなったものも多いのではないか。この時期の特筆すべき出来事として、映画音楽への進出(1953「煙突の見える場所」)、團伊玖磨、黛敏郎との「三人の会」の結成(1953)、『祖国の山河に』(詩:紺谷邦子)にはじまる「うたごえ運動」へのかかわり(1953)、国交がなかったソ連への密入国と『交響三章』他の初演、出版(1954)。労音アンサンブルを母体としてはじまった新交響楽団とのかかわり(1956)があげられる。

第2期にあたる『エローラ交響曲』(1958)から舞踊組曲「蜘蛛の糸」(1968)あたりまでの期間は、作風が変化し、のびやかな旋律や明快な和声は姿を消し、親しみがたいといえばよいか、難渋な印象をうける音楽が多い。きっかけとなったのは、欧州旅行の帰途立ち寄ったインドの「エローラ石窟寺院」でうけた衝撃であり、この時期を特徴づける作品としては「弦楽のための音楽1番」(1962)無伴奏合唱曲『お天道様・ねこ・プラタナス・ぼく』(1958)、『ヒロシマのオルフェ(1967改訂)(原題『暗い鏡』(1960))があげられる。  

この時代は60年安保や、ベルリンの壁により東西の対立が激化してゆく時期であり、芥川自身も社会情勢に並々ならぬ関心を寄せていた。こうした社会背景も作風に影響を与えているものと推測する。

第3期は『チェロとオーケストラのための「コンチェルト・オスティナート」』(1969)から始まるが、第4期への以降を作品で区分することは難しい。第1期を思わせる明確な旋律やリズムが再び姿を見せるが、「コンチェルト・オスティナート」での独奏チェロが内面を静かに、時に激しく語るような表現は、第1期とも2期とも異なり作曲家としての円熟味を感ずる。また、明確なオスティナート主題とそれを背景にのびやかにうたわれる抒情的な旋律は、第1期に通じるが、オスティナート主題が整理され洗練されている。なお、この時期、TBSラジオ『百万人の音楽』(1967~1988)が始まっている。

第3期の作品では、ほかに『オーケストラのためのラプソディ』(1971)、『GXコンチェルト』(1974年)が同系列の作品としてあげられる。

第4期は、作風ではなくNHKの『音楽の広場』(1977~1984)が始まった1977あたりからとするのが良いかもしれない。このころより、團伊玖磨をして「文化のための壮絶な戦死」といわしめた、音楽の啓蒙活動や音楽家の権利を守るための活動、平和のための社会運動など、芥川の仕事を語るうえで外せない重要な仕事が増加してゆく。

1977年頃からはじまる音楽著作権保護のための活動、旧奏楽堂保存運動(1979~)、「反核・日本の音楽家たち」の運動(1981~)、サントリーホール(1986開館)、田園ホールエローラ(1989開館)建設のための助言、さらに、日本作曲家協議会会長、ヤマハ音楽振興会、サントリー音楽財団、日本音楽著作権協会の理事、宮城フィルハーモニー管絃楽団音楽監督、日ソ音楽家協会運営委員長などなど、芥川は多忙を極めていた。この中で、『八甲田山』『八つ墓村』(ともに1977)「鬼畜」(1978)等の映画音楽が作曲されていったのは、驚異というほかない。

特に前二者の壮大で華麗なオーケストラ音楽は、芥川のもっとも美しい音楽の一つといえる。70年代後半からは、子供のための音楽や「音楽の広場」での演奏を前提とした音楽も増えている。代表作としては、イタリア放送協会賞、エミー賞を受賞した『音楽と舞踏による映像絵巻「月」』(1981)、改作ではあるが、『オルガンとオーケストラのための「響」』、そしてなにより、完成させた最後の作品であり「伊福部昭先生の叙勲を祝う会」で演奏され敬愛してやまなかった伊福部昭にささげた『ゴジラの主題によせるバラード』(1988)は、芥川にしか書けない、いかにも芥川音楽といった傑作である。

絶筆は、鈴木行一が補作した『佛立開導日扇聖人奉讃歌“いのち”』(1988)であった。

最後に、筆者の好きな芥川の言葉の一つを引用する。

「人間は音楽なしには生きてゆけぬ。大きな悲しみに立ち向かうには、それに耐える歌がどうしても必要になるし、戦いに臨んでは勇気をかきたてる歌が、赤子を寝つかせるには子守歌がいる。人間が歌を必要とするということは、歌というものが、人間の一部を構成しているということでもある。」(第113回演奏会「新響と30年 芥川也寸志」(1986年11月)パンフレットより)文:清道洋一