語り手:小出英樹氏(指揮者・水野修孝門下)
インタビュアー:西耕一
第1章:水野修孝との出会い
私は名古屋出身で、西洋音楽中心で育ってきました。1979年に千葉大学に入学して、大学の管弦楽団ではヴァイオリンを担当し、ライブラリアンをしていました。
その年の秋、水野先生の指揮で《海》と《ロマンティック》を演奏しました。
水野先生の指導は、とても印象に残っています。作品のツボ(水野先生は「本質」とよんでいました)をおさえて、それを体感できるよう和音、和声の響きを身体と耳で体感させてくれることが多くありました。
他の指揮者とは異なるアプローチであり、いつも新しい驚きがあったので、私たちはそれを楽しみにしていました。
集中すると我を忘れてしまうようなところがあり、指揮をしながら音楽に陶酔して、その頂点で、指揮棒が震えたまま降りてこないこともありましたね(笑)。しかし、この頂点で停止してしまう音楽観が作曲家としての強烈な個性だと後日理解することになります。
第2章 芥川也寸志との出会い
1980年1月に、ライヴラリアンとして、芥川也寸志先生のお宅に伺って、夏の定期演奏会の曲目の一つである《交響管絃楽のための音楽》の楽譜をお借りしました。
学生だから、お金がないだろうと、直接、先生の楽譜を貸してくださったのです。
しかし、貸し出されたのは芥川先生の直筆による鉛筆書きのオリジナルスコアでした。
「大変なものを借りてしまった」と震えながら複写させて頂き、翌日すぐにお返しに行きました。
その年の6月22日には水野先生の指揮で《交響管絃楽のための音楽》を演奏させて頂きました。
芥川先生も会場に見に来てくださって、アンコールで《交響管絃楽のための音楽》を指揮してくださいました。
その縁で冬の演奏会は芥川先生が指揮してくださることになり、12月には芥川先生の指揮でチャイコフスキーを演奏し、その薫陶を受けました。
コンサートの後のレセプションでは
「僕は水野修孝のために千葉大を指揮したのだ。彼は類稀なる才能を持った作曲家だ。こういう人物を指揮者として長年活動してきたことを誇りにしなさい。」
と言い残して帰られたのでした。
余談ですが、芥川先生は、アンコールとして水野先生の作品を取り上げたいとおっしゃられて、水野先生が自ら推薦された《日本の旋律によるコンポジション第3番》のスコアを読んで検討されていました。しかしながら、編成も大きく、20分近い大作であったことから残念ながら断念されました。後日、芥川先生のオーケストラである新交響楽団のメンバーから伺った話では、日本の交響作品展を展開していた晩年の芥川先生は、幹部を前に「水野は避けて通れない」と、いつか新交響楽団で演奏する意思をお持ちだったようです。
第3章 水野先生の指導「日本人の音」
次第に、水野先生の作曲家としてのお仕事を知るようになった私は、大学2年の時、独学で作曲していた《交響曲》を先生に持ち込みました。
1週間かけて読むからということで、1週間後に伺いました。
少しは褒めてもらえるのではないかという淡い期待は見事に打ち砕かれ、結果は「ボロクソの酷評」でした。
先生は私に「なぜここはこの音を選んだのか?」と問われました。
私はそれに何も答えることができませんでした。
「なぜそう書いたのか? 無意識かも知れないが、それは君が日本人だからだ。先ずは日本の音楽を1から勉強することから始めなさい」と指導されました。
ただ西洋の理論を真似るのではなく、自身のルーツである「日本の響き」と対峙せよという、本質をえぐる教えでした。
私は計り知れないショックを受け、同時に、本物の芸術家の心構えを知ったのです。
また、その年の夏のオーケストラの合宿で、水野先生の提案で私の《交響曲》を部分的に音出しをしてくださいました。
私は水野修孝、芥川也寸志という、お二人の偉大な作曲家から、とても大きな影響を受けました。こうした体験から日本音楽や邦人作品にがぜん興味を持つようになっていったのです。
第4章:初めて水野修孝作品を演奏
1981年には、水野先生の研究室に入り、水野先生には卒論の指導教官として指導を受けました。
その年の演奏会では千葉大学管弦楽団のために《オーケストラ1981》を作曲して、念願の自作自演が遂に実現することになりました。
当時の学生は水野先生の作曲家としての凄さまではよく理解出来ていませんでしたが、この作品の練習を通して、次々と繰り広げられる現代音楽の手法を作曲家から直に教えていただき体験しました。その衝撃に誰もが深い尊敬の念を抱いたものです。
本番の1981年12月20日では、《オーケストラ1981》は管楽器の編成が大きく、舞台の花道に金管楽器がずらりとせり出したほどで、そのサウンドは凄まじいものでした。
打楽器も、当初は、ドラ1枚で叩いていた部分を、それじゃ足りないからもう1枚、もう1枚と増やして、ついにはドラ3枚を打ち鳴らしたのです。
当時の打楽器セクションのトレーナーの野口先生は、こんなにすごい音じゃあ耳を壊してしまうから、耳栓をつけて演奏したほうが良い、とアドバイスされたほどでした。曲の頂点で限界ともいえる大音響が長い間停止したかのように持続する水野作品の本領がこの作品には象徴的に表れています。
一方で、先生の音楽の真髄は「終わり方」にあります。
先生はグリエールの『交響曲第3番 イリヤ・ムーロメッツ』やワーグナーの『指輪』を愛聴しておられました。
その影響もあり、どれほど壮大な大音響で展開された曲であっても、最後は「神々の黄昏のように、静かに小さく消えていく」という美学をお持ちのように思っています。
第5章:水野先生の授業:カオスと無秩序とデタラメは違う
ここに、水野先生の「作曲」の授業で使っていた、私のノートがあります。
先生が扱う音楽は、クラシックの枠に収まらず、ジャズやロック、歌謡曲、民族音楽、テクノ、さらにはディスコにまで及び、それはそれは大変な広がりがありました。
一緒にダンスホールに行った学生さんや、大学の音楽室でディスコパーティーをしたこともありました。
「カオス・無秩序・デタラメ」というメモがありますが、この3つは近いようで全く違うというのが水野先生の持論でした。先生の作曲の根幹に触れるメモだと思います。
私にとって最も印象深かった言葉は「作曲とは、理論に従うのではなく、理論を作るのである」という言葉ですね。
ほかにも、方法意識とインスピレイションと素材の比較音楽的思考、偶然性と集団的無意識などのメモがあります。
また、こんなこともありました。ある日「小出くん。秋葉原の駅に行ってホームで耳を澄ませてごらん」と言われました。
「秋葉原にはレコードを買いに行ったりしますが」と答えたのですが、
先生は「秋葉原の駅は、あっちからも、こっちからも電車が走ってきて、色んな方向から、色んな音が聴こえる。移動する音源が体験できる。これはとても面白いサウンドだよ」と。
その時は、驚きましたが、その後、《交響的変容》の第4部で、合唱が各方向から移動するのを体験して、納得しました。
また、オケの練習室に向かう途中で水野先生とたまたま一緒になった際には「練習前にオケの連中が好き勝手にいろいろな曲を弾いているだろ? みんなバラバラだけど音が生き生きとしている。いいサウンドなと思わないかい? こういうのを作曲したいんだよね」と話されたのを鮮明に記憶しています。《交響的変容》の第1部には指揮者のテンポと無関係に奏者がバラバラになって、演奏する場面が何箇所かありますが、まさにそこがこのことだろうと思っています。
再演不可能と言われていた超大作《交響的変容》が、水野先生に惚れ込んでいる山田和樹さんの指揮で再演されるのをたいへん嬉しく思います。
これを機に、水野修孝作品が、世に広く知られて、たくさん再演されることを願っております。
(2026年4月23日、船橋市にて)
小出英樹 Hideki Koide Conductor
1958年、名古屋生まれ。千葉大学大学院教育学研究科修了。作曲を水野修孝氏、日本音楽学を樋口昭氏、ヴァイオリンを元東京都交響楽団の福島粲氏に師事。在学中は千葉大学管弦楽団に属し、そこで関わった作曲家の水野修孝氏と芥川也寸志氏に強く影響を受ける。弥生室内管弦楽団指揮者。市原フィルハーモニー管弦楽団常任指揮者。両楽団を創設以来、今日まで継続的に指揮。近年は、千葉県内の複数のオーケストラの指揮者も務める。
2018年に著書「わらべうたは死なず」を出版。2019年より帝京大学医療共通教育研究センター・准教授、2020年より帝京平成大学人文社会学部・准教授を経て、2024年より帝京大学板橋キャンパス・客員講師。日本民俗音楽学会および東洋音楽学会会員。





