黛敏郎/ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(自筆版)



2017年4月10日より出版

現在、コンサート会場やスリーシェルズ社の通信販売にて販売予定。

コンサートプロデュースや、CD、楽譜出版をてがけるスリーシェルズは黛敏郎の生誕88年を記念して、黛敏郎の楽譜出版を行う。

 

『黛敏郎/ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(自筆版)』

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タイトル 黛敏郎/ヴァイオリンとピアノのためのソナタ(自筆版)』

サイズ A4

ページ数 24

税込価格 2000円(税抜 1,852円)

商品番号 TSE-003

バーコード 4560224351037

JASRAC許諾番号 1703656-701

発売日 2017年4月10日

企画製作・発行 スリーシェルズ

協力 黛家


作曲者の言葉

昭和21年、私が17歳のときの作品。

当時、東京音楽学校の生徒であった私の、最初の作品らしい作品である。

昭和21年といえば終戦の翌年で、まことに悲惨な時代だった。家を焼かれてピアノもなかった私は、横浜の仮住居から、毎日、殺人電車に詰め込まれて、上野の学校までピアノをつかいに通った。この頃の勤勉ぶりは今想出しても我ながら天晴れと思うほどで、今日はいつになくバカに電車が空いているなと思ったら元旦で、学校に行っても誰も居らず、思う存分ピアノを使えたなんてこともあった。

私に、ヴァイオリン・ソナタを書けとすすめられたのは、当時の恩師 故・橋本國彦先生で、たしか同級の矢代秋雄君も一緒に書いたと記憶している。

初演は同年秋の校内演奏会、ヴァイオリンが江藤俊哉でピアノが園田高弘という、今ではチョット実現不可能な組合せだった。初めて自分の作品がステージで演奏された時の昂奮は、いまもまざまざと覚えている。演奏は申し分ない名演奏だった。

当時、ドゥビュッシーに傾倒していた私だったが、このソナタのためにセザール・フランクを勉強し、その影響が大へん強い。フランク流の循環主題の技法など随分凝ってやったつもりなのに、生まれて初めて雑誌に載った批評で、寺西春雄氏に“音楽的だがソナタとしては構成力に欠ける”と云われてケションとした。

出版に際して、随分直したい所もあるが、いまはまるっ切り作風も違ってしまったので直し初めたらきりがなく、オリジナルのまま残しておくことにした。(1960年2月2日 黛敏郎)

 

楽譜出版にあたって

 黛敏郎にとっての「作品第1番=Op.1」である『ヴァイオリン・ソナタ』は、1960年に『世界大音楽全集:器楽篇』(音楽之友社)に収録され、印刷発行された。その後、永らく絶版状態だった。しかも、この印刷譜はピアノパートに幾つかの誤植があり(ヴァイオリンパートにも少なからずあり)、それがそのまま普及していた。絶版ゆえに、楽譜を演奏・研究用として手に入れるには音楽大学の図書館や音楽専門図書館でコピーを申請するしかなかったことにも大いなる問題を感じた。

 矢代秋雄によるこの『ソナタ』の作品評によれば「これは今迄の所黛君の最高傑作であり、かつ邦人の手に成るあらゆる作品中の逸品である。」(東京音楽学校関係者による冊子『上野』1948年4月号に掲載された矢代秋雄の黛作品批評)とされる。東京音楽学校作曲科教授であった橋本國彦が認めた天才として黛敏郎と矢代秋雄は注目され、切磋琢磨して、東京音楽学校同期として同じ師匠(橋本國彦、伊福部昭、池内友次郎)に学び、フランス留学まで一緒に行った。その矢代が絶賛する黛第1作が絶版であり、誤植も放置されていたことの嘆かわしさを痛感して、この出版を思い立った。奇遇なことに時を同じくして黛敏郎御長男であるりんたろう氏より『ソナタ』自筆譜を御提供頂き、その美麗なる筆致を知った。それら偶然も加わり、コンピューター浄書による出版よりも、第1作にかけた黛敏郎の思いや歳月の重みが滲んだ自筆譜を、第一級の研究資料として、敢えて手を加えずに再現したカラー印刷による楽譜出版をと考えた。前述の黛本人による「オリジナルのまま残しておくことにした」という発言も手伝い、譜面についた書き込みなども敢えてそのまま印刷(勿論、プライベートな情報がないことを確認の上で)することとした。歴史的にも重要な作品の楽譜が自筆譜のフォトコピーとして出版されることの意味を御理解頂き、御許可下さった黛りんたろう氏に深く感謝を捧げる。(2017年3月 西耕一)

 

黛 敏郎 Toshiro MAYUZUMI(1929-1997)

1929年(昭和4年)2月20日、横浜生まれ。東京音楽学校(東京藝術大学)で橋本國彦、池内友次郎、伊福部昭等に師事。1948年(昭和23年)に作曲した「拾個の独奏楽器の為のディヴェルティメント」により才能を認められる。1950年(昭和25年)作曲の「スフェノグラム」は、翌年のISCM国際現代音楽祭に入選して海外でも知られるようになる。1951年(昭和26年)パリ・コンセルヴァトワールへ留学、トニー・オーバン等に学ぶ。フランスから帰国後、ミュージック・コンクレートや日本初の電子音楽を手がけた。1953年(昭和28年)芥川也寸志、團伊玖磨と「3人の会」を結成。また、吉田秀和等と「二十世紀音楽研究所」を設立。雅楽・声明をはじめ、日本の伝統音楽にも造詣を深める一方、交響曲、バレエ、オペラ、映画音楽等の大作を発表した。1964年(昭和39年)より、テレビ番組「題名のない音楽会」の企画、出演。東京藝術大学講師、茶道「裏千家淡交会」顧問、評議員。「日本作曲家協議会」会長、「日本著作権協会」会長などを歴任した。
「涅槃交響曲」(1958)で第7回尾高賞、「BUGAKU」で第15回尾高賞を受賞。
主な作品に「ルンバ・ラプソディ」(1948)、「饗宴」(1954)、「曼荼羅交響曲」(1960)、「シロフォン小協奏曲」(1965)、オペラ「金閣寺」(1976)、「KOJIKI」(1993)、バレエ「The KABUKI」(1986)「M」(1993)他がある。ピアノ曲は、「前奏曲」「金の枝の踊り」「天地創造」などがある。
ISCM入選(昭和31、32、38年)。毎日映画コンクール音楽賞(昭和25、32、38、40年)。毎日演劇賞(昭和33年)。ブルーリボン賞(昭和40年)。仏教伝道文化賞(昭和50年)。紫綬褒章(昭和61年)。
1997年(平成9年)4月10日逝去。